わらしべ長者

子供の頃からこの物語は好きだったが、改めて見てみると、子供心に何が響いたのかがわからない。
拾った藁にアブをくくりつけて、それをきっかけに、次々と別のものに交換していく過程は、それなりに教訓として受け止めることができる。大人になった今であればそうなのだが、そんな教訓が子供時分の私にとって面白いものだったのかどうか、甚だ疑問だ。

特に、絹の反物を無理やりに瀕死状態の馬と交換させられ、無心に身体をさすってやるエピソードでは、どうすればこんな愚直で真摯な人間になれるのだろうか?出来るものならなってみたいと、現在大人の私は真剣に思う。そのような無心さが、人間の立ち位置を決めていくのだろうと思うのだ。

だが、ラストで、この物語の主人公は、すんなりと億万長者になってしまう。そのくだりは、あまりに都合が良すぎるように思う。確かに、この物語のスタート地点まで、この男は運から見放され、もう死ぬしかないというところまで落ちぶれていた。そしてそこから観音様のお告げに従って、藁しべをみかんに、みかんを絹の反物に、絹を馬にと交換していく過程は、実に奇特な人物であると感じさせらる。しかし、何も億万長者へと成り上がっていくほどの労を費やしたわけではないに思える(だからこそ「やっとツキが向いてきた」という表現が正しいのかも知れないが)。

ひょっとしたら、幼少の頃の自分は、こんなことで億万長者になれるんだったら…などと、都合の良いメッセージを、この物語から読み取っていたのではないだろうか?と、過去の自分へ疑問の目を向けるのである。