正高信男『他人を許せないサル』

―IT世間につながれた現代人―

というサブタイトルがついており、自戒を込めて、これは一読の価値があるのではないかと思い、読んでみた。携帯電話、インターネット、なんだか自分にとって必要かどうかという考察をちゃんとやらないまま、これからは必要だなあという漠然とした気持ちで手にしてしまったと常々反省している。持たない選択もあったはずだと。しかし、一度所有してしまうと、手放せなくなっていることに気づき、困ったなと思い始める。自分自身はなくてもかまわないのだけれど、周りの人に迷惑がかかるかなと思ってしまう。まがりなりにも個人で仕事をして、外に出る機会も多いと、なかなか連絡がとれないのは、相手側に立つと、精神的にストレスがたまるだろうなと思う。しかし、一方で持っていなければ持っていないで、仕事のやり方はありそうだなとも思う。携帯電話がないころのフリーランスはどうしていたのだろう?そこを今は知りたい。


さて、そんな風に思っていた私には、良い本だと思った。前述したようなことだけではなくて、本書に書かれているような「自分だけが損をしている」ような意味のない不安とイライラ、それから常にメールの着信が気になる、といった状況に、ここ数年はまり込んでしまって、実際に他者との関係性において支障をきたしていた。こんなことおかしいじゃないかと何度もリセットしているつもりなのだが、同じことを繰り返した。
どういうきっかけだったかは忘れたが、今では、携帯電話を忘れて出かけることが珍しくないし、電池が切れても「まあ、いっか」と2日間ほったらかすくらい、携帯電話が気にならなくなったので一安心しているところだが。

そして、後書きに書かれた次の一文では、常々疑問に感じていた点に触れられていて、もっと明確に問題意識として持っておいたほうがいいなと、改めて思った。

検索エンジン、というのがある。キーワードを入力すると、いろいろな内容について簡単に情報を得ることができるようになった。新聞などでも、従来では不可能だったわけで実にすばらしいことと、賞賛する記事を目にする。
「集団の知恵」が培われることも書かれている。たくさんの材料を活用して、多くの人が自分たちの考えを自由に提供することで、過去には不可能だった創造的なアイディアを産み出せるかも、という。
もしもその通りであれば結構なことだが、人間もサルの一員である以上、そうは問屋がおろさないのでは、というのが私の予想である。むしろ、情報処理能力の限界を超える選択肢を前にして、考えることを放棄する可能性の方が高いと思う。

インターネットが普及するのと平行するように、ライフスタイルや価値観の多様化、ということが言われるようになったし、昨今ではWEB2.0という言葉とセットになってロングテールという言葉も使われている。だけどその一方で、政治に関するニュースを見ていると画一化が一層進んでいるのではないかと思えることが少なくない。前総理大臣・小泉純一郎に対する支持率、前回の参院選での自民党の圧勝、そして現総理大臣・安倍晋三への支持率。
自民党政権が良い悪いという以前に、そのことについて生きた議論がされていないことに、強い不安を感じる。
これだけインターネットが普及して、ブログなども書かれて、市民ジャーナリストなどという言葉ももっともらしく使われているので、「言論」というものの置かれた状況は今までに無いくらい幸福な状況だと考えることもできるが、実際にネット上に溢れる情報は三面記事的なゆるい内容のものだ。

周囲が何に注目し、興味を抱いているかにびくびくして、絶対に遅れることがないようにとずっと神経をくだくようになってしまっていないだろうか。自由とも創造的とも、およそ程遠い保守的で型にはまった作業しかできなくなっているのではないだろうか。
「IT、ITと言いやがって、俺たちと何も変わっていないな」と、サルたちの笑い声が聞こえてくるような気がする。

こういう状況だからこそ、ちょいワルおやじというようなみっともない生物が闊歩できる土壌が仕上がったのだとも思う。

この本の著者も書いている通り、ネットはあくまでも道具だ。「持つ」ことを選択してしまった以上は、その道具の扱い方、接し方には慎重にならなくてはならないと、再度自戒を込めて。